はじめまして!!いのっちです。
みんなが楽しくて笑顔になるイベント。
被災地で、そんなイベントが地元住民の方々と多くの仲間によって開催されました。
5月12日13日の2日間の日程で、田束山MTB(マウンテンバイク:以下MTB)大会とストリートMTBチームTUBAGRAによるデモンストレーションショーが行われ、私たちも観に行かせて頂きました。
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この大会は、今回で18回目、被災直後の去年も規模を縮小しキッズのみですが開催されたそうです。
12日に南三陸町歌津にある伊里前福幸商店街(仮設)で行われたデモンストレーションショーでは、MTBが想像もできないぐらい高く遠くへ跳んだり、人の上を飛び越えていったり、フィギアスケートのように回ったり、すごい技の数々に会場にいた人達からは、技が決まっても決まらなくても楽しげな歓声と拍手が湧き起こっていました。
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また、私たち観客も実際にMTBに乗って楽しめる時間も作って下さり、子供たちはもちろん、大人も初めて挑戦するストリートMTBに四苦八苦しながらも大興奮でした。
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13日に田束山で行われたMTBのレースには子供から大人まで約200名の方が出場されました。
田束山は、標高512mと付近の山の中でもとりわけ高く、眼前には三陸の海岸が広がり、山頂付近に沢山のつつじや桜が季節ごとに咲き誇ります。
そんな素晴らしい絶景の中を、参加選手が一生懸命走る姿、楽しそうに走る姿に、観客の皆さんも声援を送っていました。
また、地元の方々による炊き出しもありました。
絶景の中で食べる、南三陸町でとれたワカメのお味噌汁と、ネギの花の天ぷらは絶品でした。
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長年継続して行われてきたイベントだからこそ、被災後1年経った今、沢山の人達が参加するイベントとなり。
地元住民の方々を中心に、多くの方々が力を合わせて開催されるからこそ、参加する人も観る人も運営する人も、自然と笑顔の溢れる楽しいイベントになっていると感じました。
瓦礫が山積みで建物は土台だけ、まだまだ津波の爪痕が残る被災地ですが、
こんな素敵なイベントが開催され、復興へ向け立ち上がる方々が大勢います。
やっぱり笑顔ってええな~!!
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現地レポートブログ
田束山マウンテンバイク大会
2012年5月18日 14:51
語り部ガイドさんのお話
2012年5月13日 23:13
はじめまして、こんにちは、ゆーみんです。
5月3日、ここに来て初めて、ずっと直接お聞きしたいと思っていた語り部ガイドの方のお話を聞くことができました。
南三陸町に来て約1か月、様々な活動をさせてもらっている中で、時間があいた時にはメディア班にお願いをし、今まで撮りためてきた過去の活動記録や南三陸町の写真などを見させてもらってきました。その中で"語り部ガイド"の活動にとても興味を持ち、いつかここにいる間に、語り部の方のお話を生で聞いてみたい、そう思うようになりました。
"語り部ガイド"とは、震災のことを風化させないために、当時のことを語り継いでいこうとする方々です。その日は、語り部の方がわざわざ私たちの拠点に来てくださり、私たちのために当時の生生しいお話をしてくださった貴重な時間となりました。
ピリッとした空気の中始まった"語り"・・・他のメンバーも何だかいつもと違う雰囲気で緊張していました。一語一語、聞き逃すまいと全身を集中させました。
一語一語、言葉の重みを感じ、胸が張り裂けそうになりました。
大切なお友達をなくされたお話、避難所での想像を絶する過酷な暮らし・・・胸が苦しくなりました。でもその過酷な暮らしの中で自分にできることを必死に探し、動き続けていた姿に心打たれました。
一つ一つ思い出しながら、お話してくださった語り部の方の涙を忘れてはいけない・・・
"想い"を受け止め、伝えていくこと・・・風化させないためにそれが私たちのできること、すべきことだと感じました。
"想い"をつなげていきたい・・・
ここの現地にくるまで、津波で流されていくこの南三陸町の町の映像を見ることができなかった、見るのが怖かった・・・町が流されていく・・・映像から聞こえてくる声・・・胸が痛くて目も耳もそらしていました。
でも"語り"を聞いて、しっかりと目で耳で心で感じたこと、伝えたい、伝えていかなきゃ・・・
「生かされた身として何かやらなくちゃ」語り部の方の力強い言葉・・・
「"想い"を受け継いだ身として、伝え、動いていかなきゃ」私たちがすべきこと・・・
そう胸に刻んで活動していこうと思います。
(語り部の佐藤さんとみんな)
第13回 福興市
2012年5月10日 13:33
4月30日 第13回福興市が行われました。
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南三陸町の福興市は毎月月末の日曜日に開催され、一万人近くの人が来られます。
あの東日本大震災から一年と一ヶ月が経過し、13回目の福興市が開催されたということは、このお祭りは震災直後から開始したことが分かります。
私は一年前の福興市には来ていません。2011年の5月の第二回福興市から参加しました。
ただ伝え聞く第一回は避難所だった志津川中学校で、電気もなく、地元商店も津波に流された直後だったので全国から善意で集められた商品を売るというものだったと聞きます。
震災から一ヶ月も経たずに南三陸町の方々は福興市を企画し、瓦礫も片付かないままの町に一万五千人もの人が集まり大成功できたのです。
福興市 公式サイト
http://fukkouichi-minamisanriku.jp/
散り散りになった町の人々が再会し、安否の分からなかった方達が生きていることを確認し合い涙を流して喜んだそうです。私がそこに参加できなかったことは悔まれますが、当時の写真や映像を見るとそこには、決意に満ちた人々の笑顔と涙が映っていました。誰もが命を燃やし、現状を変えるために懸命に助け合い、不可能に思えることを成し遂げた、そう感じる写真でした。
(2011年4月第一回福興市の様子)
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そして一年経ち、避難所から仮設住宅に住民の方々は移り住み、瓦礫を片付けた跡には商店が建ち、少しずつ普通と呼ばれる生活に近づいてきた今、福興市に訪れた人々の笑顔は一年前に見せた決意の笑顔とは違う、柔らかい微笑みでした。地元商品を売れるようになり楽しそうに働く人々、ステージを満面の笑みで優しく見守る人。一年経って、皆を包む雰囲気が変わったのだと実感できました。
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去年、瓦礫に埋もれて咲かなかった桜は咲き、 未だ残る瓦礫の間から花が姿を見せた南三陸町で生きる人々の顔は、想像を絶する苦しみや困難を乗り越え不可能と思えることに挑戦してきた人にしか出来ない笑顔に見えました。どれほどの痛みを越えてきたのかは私には分かりません。でも、そこにいた人達の笑顔から感じることができるたった一年の間に経験した長く深い歴史は、きっとこの町の未来をこれからも輝くものにしていくのだろうと思えました。
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一年前、出来るか分からないと思われた福興市をやり続けると言った町の人々は本当に実現することが出来ました。その願いを実現した姿を見ると、あの時の「願い」とは必ず成し遂げようとする「決意」だったのだと今なら分かります。
それを町の人々の笑顔から学ぶことの出来る福興市でした。
メディア班 さの
登米風土博覧会
2012年5月 7日 21:20
初めましてこんにちは、じゅんちゃんです。
私たちは先日、南三陸町のとなりにある宮城県登米市で開催されました【登米風土博覧会】のお手伝いをさせていただきました。
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前日から続く雨模様に天候が心配されましたが見事なまでの青空と快晴に恵まれこれ程にもない最高のロケーションで当日を迎えることができました。
会場となった【長沼フートピア公園】はたんぽぽの黄色、満開の桜のピンク、生い茂る草木の緑というカラフルな大地の絨毯が敷かれ、地域のお客様で大変賑わいました。
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会場では登米市と南三陸の地域で取れる食材を使った『食』をテーマとし、Riceグランプリ、サンドグランプリ、スイーツグランプリと三部門に分けたお客様の投票によりグランプリを決めるイベントが催されました。
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私自身、スイーツの物販のお手伝いをさせていただきました。お店の大将を始め、来場いただいた地域の方々と会話をさせていただく機会が多く、この町の自然だけでなく人情の豊かさを肌で耳で声で感じることができました。
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ただ、ひとつ。悲しい現実にも気付かされました。
無添加の蓬を使用した食品を扱っていたこともありお客様から【放射能は大丈夫なの?】という声がありました。
私は思わず言葉を失ない硬直しました。震災から1年経って放射能の恐ろしさを初めて知った瞬間でした。
その時お店の大将は笑顔で【登米市の蓬は国が定めた規準クリアしてるから大丈夫だよ!】
その一言に迷いはなく、私はむしろ誇らしさを覚えました。
地域の方が自信を持ち、誇示しなければ登米市という素敵な町の復興はないのかもしれないです。
大会の締めくくりは三部門に分けられたグランプリの表彰式でした。私が担当させていただいた【六角堂さん】の草餅はスイーツ部門にて準グランプリを獲得しました。
大将は驚きと照れの表情を見せましたが表彰台に登るその背中は自信に満ちた勇ましい姿でした。
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お店の関係者の方と私たちユナイテッドアースの面々は出身地も年齢も違います。ですが互いに高揚し合い生まれた地域の方との【絆】。受賞した喜びも一入ですがこの時に初めてその言葉の意味と強さを理解できたことが大変嬉しかったです。
風土博覧会の開催された3日間は何にも替え難い貴重で濃厚な時間でした。
来場してくださる方々や一緒に活動した方々が笑顔でいるのを見て私はこの町に暮らす方と一緒に僅力ながらお手伝いができたことを大変誇りに思います。
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英語教室!
2012年5月 4日 20:42
保育園児英語教室担当のピーウィーです。
4月20日、登米市にある佐沼保育園でメンバーのポカさんと一緒に園児に英語を教えてきました。教える、と言うよりは英語を使って遊んできました。
桜が咲き始めた敷地を抜け、明るい建物に入ると園児達の大きな歌声が聞こえてきてとても楽しい気持ちになりました。
教室に入り、まずは簡単な自己紹介。
そして、Hello! How are you? I'm fine! と言った簡単な挨拶を覚えてもらいました。
この保育園では3ヵ月に一度くらいのペースで英語教室を開いているそうで、園児の中には簡単な英語なら知っている子もいて、そんな子は自ら「知ってるー!」と嬉しそうに手を挙げていました。
挨拶が終わると今度は歌を使って英語を覚えました。
最初はABCの歌を一緒に歌いました。
歌が終わるとUEのメンバーみんなで作ったイラストボードを使って英単語を覚えたのですが、思っていた以上に子供達は単語を知っていて、イラストを見ただけでApple! とかDog! とかこちらが教える前に答える場面もちらほらありました。
今度はもうちょっと難しい単語の方がいいのかな、なんて思うのもなんだか楽しい瞬間でした。
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その後は1から10までの数え歌、「グーチョキパー」の手遊び歌をみんなで歌って、最後まで楽しく盛り上がることができました。
子供達は終始笑顔で、とても元気が良く、始まる前は大丈夫かなと少し不安だった僕の方まで元気をもらってしまいました。
やっぱり子供の笑顔というのは良いものです。
英語を通して、子供達が元気になるのならこれからもずっと続けていけたらいいなと思いました。
これからこの街は今の子供達が支えていくことになります。
これは園長先生の夢でもあるのですが、幼少期のほんのささいな英語教室が、今後彼らが大人になっていく時に世界を視野に入れた人生を送るきっかけになってくれたらと思うと、今日英語教室をやって子供達が眩しい笑顔を見せてくれたことは、始めの一歩になれたのかなと思いました。
こんな素敵な機会を与えてくれたことに感謝しています。
ありがとうございました!
3.11で体験したこと
2012年4月30日 10:16
■はじめに
私の体験談は非現実的な内容になっています。話を読んで頂いて「そんなわけはない!」「嘘をついている!」などと思われる方がたくさんいると思います。
正直周りに伝えるような話ではありません。しかし、実際地震が起き、津波が来るまでの30分の内に体験したことです。時間がある方または興味がある方は読んでみてください。
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■エピソード
私は生まれてから28年間南三陸町から出たことがありません。理由は簡単です。この町が好き。ただそれだけです。
地元の高校を卒業してからこれまた地元の魚屋に勤め、震災が起こる日まで勤務しました。
その日もいつものように出勤し、普段となんら変わらない仕事をしていました。午前中は仕入れた魚の加工、お客様の対応、あといつも来る中華料理人の友達が魚を仕入れに来ていました。
この友達が暇なのか自分の店の営業時間ギリギリまで店にいたのを覚えています。ほんと会話が大好きなやつです。
でもいつもと違う会話が1つありました。それは「結婚」の話です。
いきなり私に一言「お前より早く結婚してやる!」急にどうしたんだろうと思いながら私が一言「自分の顔見てから判断しろ!」
友達だからできる会話ですね。こんなことがありながら午前中が過ぎ、13時~14時までの1時間の昼食の時間がやってきました。10分かけて山手にある実家に毎日帰り、ご飯を食べていました。家には母親が1人でいていつもご飯を作って待っていてくれます。体が弱く仕事ができませんが、それ以上に家の家事をしっかりやってくれる私の自慢の母親です。そして、私が家についてみるとそこには普段いるはずのない隣町に嫁いだ妹が遊びに来ていました。6ケ月になる子供(姪)も一緒に。
14時になり、店に戻ると午後の市場で水揚げされた魚が店に届いていました。14時20分、10年以上もお世話になっているお徳様が店に買い物にきました。そして、運命の14時46分。大地震が襲いかかりました。私以外の方は地震が起こると同時に外に避難しましたが、私は店の奥の厨房にいたため身動きがとれず、取り残されてしまいました。
激しい揺れとともに陳列された店の商品が崩れ落ちてきました。それを見た時、天井が崩れ落ちるイメージが頭をよぎり、その瞬間、死を覚悟しました。揺れが約1分以上続いたあの時間はとても長く感じました。その後揺れが治まり、急いで店の外に避難しました。そこにあった光景は普段となんら変わることがない街並みが残されていました。しかし、その光景は美しいというものではありません。私はとても不気味に感じました。お客様を先に逃がし、従業員を逃がし、そのあとで私が逃げる準備をしました。車に乗り込み、そこで1つの考えが生まれました。「津波とはどんなものなのだろう?」私は海に見に行こうとしました。
エンジンをかけ、車を走らせた瞬間。急に私はお爺さんのことが気になり、「どこにいるんだろう?」その思いのまま車を走らせました。目の前の十字路の信号機で停止。他の道から来る車に阻まれ全く動けません。それが1分くらい続きました。もうだめかと思った時、今まで走っていた車がピタっと止まり、私はその間をぬって車を走らせました。次にお爺さんを探しながら午前中に来た友達の事も心配になり、その場所(家)に向かいました。この時点で地震が起きてから約10分が過ぎました。
家についてみると家族みんなで2階にテレビなどの機器類をあげていました。私は「そんなのはいいから早く逃げよう!」友達に声をかけました。しかし、なかなかやめようとはしません。このままでは言うことを聞いてはくれない。私は友達の胸ぐらを掴み「逃げるよ。」ただ一言伝えました。
その行動が何を意味していたのか彼自身も考えてくれました。「わかった」一言。私は山へ、友達は海に近い病院へ逃げました。
また車を走らせ次に防災庁舎の前を通りました。そこでは役場の職員が避難を促していました。また危機管理課に勤務の遠藤さんの避難警告の声が町中に響きわたっていました。「このまま家まで行こう」
そして、もう少しで町から抜けるという場所で今度は倒れた電柱の電線が道路にありました。そのまま通過しても大丈夫だろうかと思いながら進もうとした時、目の前の家から1人のおばちゃんが出てきてその電線を素手でつかみ上にあげ、車を通してくれました。「早く通って!」そのそばには小さなお孫さんもいました。「危ないからやめてください!」それでもやめようとはしません。私は他にも車が来て渋滞になってきたのでそのおばちゃんとお孫さんに一礼をして車を走らせました。
そのあとはいつもと変わらないルートを進み無事に家に着きました。
なぜか、お爺さんを探しながらいつの間にか自宅についていました。
家には家族がみんないました。ガソリンもあとわずか、とりあえず車を止めエンジンを切った次の瞬間、私は現実に戻されました。
お爺さんは1年前に亡くなっていたという現実に。
その時、私は思いました。亡くなってからも、私の事を心配して助けてくれたのだと。
本当に不思議な体験をしました。こんなことが現実にあるのだと。
私は避難するまでたくさんの人に助けられました。十字路で車を止めてくれた人。防災庁舎で自分の命を犠牲に必至で避難を呼びかけた遠藤さん。電線をあげて通してくれた女性。自分一人の力では家までたどり着くことはできなかったと思います。私は今回の震災を通して人と人との「絆」の強さを知りました。地元だけの力だけでは「復旧」はできても「復興」の2文字は完成しません。
甘えるようではありますが、この地球に住むみんなと共に手と手を取り合うことにより復興の道を進むことができるのだと。これからの道のりは長く険しいものになってくるでしょう。私も微力ながらがんばっていきます。最後に私が心配になった友達ですが、今回の震災で亡くなりました。逃げたはずが、忘れ物を取りに戻ってしまった際に津波に巻き込まれてしまったと聞いています。
人の死というのは残された人の気持ちを大きく変えます。悲しい気持ち、悔しい気持ち、たくさんあると思います。
しかし、私は残された1人としてこの気持ちを「悲しい」「悔しい」のマイナスではなくプラスの気持ちにしていこうと思います。あえて気持ちを言葉として表わすことはしません。「言葉」、に留めてしまうと思いだけが残り、「形」として表わすことができなくなってしまうからです。ではどうすれば感じ取ることができるのか。それは「行動」。誰かを助けたい。誰かとは今そばにいる人を。その思い1つでプラスの気持ちはやってきます。感じ方は個々に違います。それぞれが行動するのです。私もその1人です。
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(ボランティアに語り部として震災体験や町の現状を話す山内さん)
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私の「言動」1つで救えたかもしれない同級生の「死」が、今、私自身の人生を大きく変えています。彼にもう1度会えるなら私には直接会わせたい人がいます。それは私の「妻」となる人です。そして一言。「悪い。俺が先だったみたい。」と。
(山内さんは2012年4月に入籍されました。)
でも本当に伝えたい言葉は素直に「友達として、出会ってくれてありがとう。」
そう、彼と最後に別れた場所で告げよう。
山内
※山内さんの体験談は、講談社「ストーリー311」第一話として漫画となって紹介されています。
http://kc.kodansha.co.jp/magazine/special_detail.php/90004/5055/1
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春祈祷
2012年4月27日 13:28
こんにちは。みどーです。
4月15日波伝谷地区で獅子舞が行われました。
当日の朝、地元の方から獅子舞があることをうかがい急きょ、見にいってきました。
わたしたちが着くとすでにたくさんの方々が集まっていました。
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太鼓や笛の音とともに獅子舞が登場し伝統的な舞を披露してくれました。
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これは「春祈祷」と呼ばれる江戸時代から続く伝統行事で、
まず、集落の東の入り口で祈祷を行い、それから各々の家に行き、獅子舞をします。
悪い物を豆腐に封じ込め、獅子はそれをくわえ、噛みます。
集落を周り、最後に戸倉神社(西の入り口)で獅子舞に使用した榊を立て、石をぶつけて倒れたら無事終了!
昨年は3月11日の数日後に行う予定でしたが、震災で行えず、
そして、今年は地区を出て仮設に入っている方も多い為、もう少し範囲を広げて行ったそうです。
震災後の復活ということもあり地元の方々の嬉しそうな顔にたくさん出会えました。
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ここへ来ること
2012年4月24日 12:44
「行ってよかった」
これが、地元に帰ってきて、両親に話した最初の言葉です。
私が、ボランティアに現地へ行きたいと思った理由は、2つあります。
1つは、単純に「何かしたい」という気持ちから。震災が起きてから地元で募金をしたり、支援物資を集め送ったりという活動をしてきましたが、「目に見える支援をしたい」とずっと思っていました。
そして、もう1つは・・・
自分の中でも、周りでもこの震災のことが「風化」していっているのを感じていたから。震災が起き1年経ち、震災関連の報道も少なくなり、「過去のこと」のような感覚です。でも、きっと「復興」には時間がかかるはず・・・
自分の目で、耳で、心で、被災地の「今」を知りたい。そう思い、参加しました。
「自分に何ができるのだろうか」という思いと不安を抱え、東北に向かいました。
仙台駅に着き外に出ると、ものすごく発展した街がそこにありました。私の地元の駅周りより、ずっとずっと都会でした。「もう1年も経ったからな」そんな言葉が頭をよぎりました。
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でも・・
高速バスに乗り、南三陸町に向かっていくと、何もないけど家の土台だけが残っていたり、壊れた車や船が残っているという風景が広がっていました。
・・「まだ1年しか経っていない」
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南三陸町の街中を見て、ここにたくさんの人が私たちと変わらない「日常」を送っていたことを想うと、何も言葉が出てきませんでした。
大切な家族や恋人、友人、生まれ育った家、学校、職場・・
いろんなものを一度になくしてしまった人達がいる、そんな場所に来て自分は何をできるんだろう・・そう思いました。
それから、1週間、さまざまな活動に参加させてもらいました。
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わかめやメカブの重さを測ったり、老人保健施設でコミュニケーションのボランティアをしたり・・
その中で、私のここでの活動が、この街の「復興」につながっているのかと悩むこともありました。悩んだ時は、仲間に話を聞いてもらいました。仲間の意見を聞きました。移動の車の中で、家で、たくさん話をしました。
ここには同じ「想い」を持って、活動している仲間がいます。「何かしたい」・・
その「想い」だけで全国から集まった仲間がいます。
1週間、ボランティアの活動をさせてもらって、地元の方や仲間と話をして、思ったこと・・
それは、ここで経験したこと・感じたこと・考えたことをたくさんの人に発信し続けていくことが、必ず復興につながることを信じることが大切だということです。
一人一人の力は、自然の力に比べると微力です。でも無力ではないのです。
このブログを見ている方は、南三陸町やボランティア活動に興味を持っている方が多いと思います。現地へボランティアに行きたいけど、思いきれないという方もおられると思います。今の状況が現地に行くことを許してくれる状況の方は、ぜひ現地へ行かれることをお勧めします。ボランティア活動でも、観光としてでも。現地での出逢いは、「人生観」を変えてくれるきっかけになると思います。
現地へ行くことが許されない状況の方は、自分の地元でできることを続けて欲しいです。
被災地を想い、自分にできることを続けていくことが、「復興」への力になることを信じています。
みんなで、「復興」に向けて、取り組んでいきましょう。
最後に・・UEの皆さんへ
本当に行ってよかった。心から、感謝しています。
またいつか、皆さんが活動をしているその場所に帰りたいなと思っています。
本当にありがとうございました。
福祉チーム
ちえもん より
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森は海を守り、海は森を育む
2012年4月21日 22:05
伊達政宗の時代から良質な木の産地として知られてきた南三陸。
降雨量は少ないながらも夏には海からミネラルたっぷりの霧がかかり森を潤すため、健康な杉の木が育つそうです。
平成23年3月には林業研究グループ「南三陸町山の会」が全国林業グループコンクールにて農林水産大臣賞を受賞するなど、南三陸杉はブランドとなっています。
申し遅れました。広報班やっちです。
今回は沼田地区に工場を再建した丸平木材さんの林業体験会に参加して参りました。
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木の香り溢れる事務所へ通され、まずお邪魔したのは木削り体験。
ロサンゼルスからいらした滝本ヨウ先生の指導を受けながら木片を削り、磨きます。
使用するのは丸平木材さんの工場で低温乾燥された「香素杉」。
「木に訊きながら削らせてもらって」「主役は自分ではなく木」「木が喜び、自分が気持ちいい削り方で」
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滝本先生や皆さんとお話しながら作業は進みます。
最後にとぐさで磨き上げると・・・2時間で滑らかな木のオブジェが完成。
その人によって形も様々ですが「それは木とあなたが気持ちいい形。飾るのではなく触って楽しんで」と滝本先生。
参加者の皆さんは嬉しそうにご自分の作品を撫でておいででした。
その後は小野寺社長のご説明による工場見学。
皮むきや角材化、スライスの工程や加工場を見ることができました。
その最後に案内いただいたのが珍しい木製の乾燥窯です。
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現在広く出回っている木材はほとんどが120℃以上の温度で乾燥させたものですが、高温によって素材が変質してしまうことがあるそうです。
対して丸平木材さんでは45℃の低い温度で木材を乾燥させており、素材の持つ長所を損なうことがありません。
高温乾燥の木材で建てた家・低温乾燥の木材で建てた家を比較すると耐年数に大きく差が出てくるのだと言います。
杉で作られた乾燥窯の中へ入るとふわりとした熱気と強い木の香りに包まれました。
奥には乾燥途中の木材が積み重ねられています。
湿度は40%、木材から水分が発せられているそうです。
他の参加者の方と談笑すること約40分。
しっとりと気持ちの良い汗をかいて林業体験は終了となりました。
「人が気持ちの良い温度は木も気持ちがよい」とのこと、先程の木削りで伺ったお話と通じるものがあります。
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一度は設備・事務所をすべて失った丸平木材。
新工場が始動したのはこの4月、被災から1年以上が経ってからのことでした。
日々の暮らしの貴重さを感じた小野寺社長は「謙虚に、自然の偉大な力を借りてその暮らしを支えていきたい」と言います。
生きた木で建てる建造物はこれからどんな町を形作っていくのでしょうか。
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丸平木材株式会社 サイト
http://maruhei-wood.co.jp/
追記:
工場の方より「南三陸杉のプレートに載せると食べ物がおいしくなる」と伺い試してみました。
スポーツドリンクの入ったコップを2つ用意、片方をプレートに載せ1分半待ちます。
そして飲み比べ・・・
うーん、プレートに載せた方は少し味が濃くなったような。
不思議ですね。木のせい、と思うことにします(^^)
進水式
2012年4月18日 22:31
4月7日、小雪舞う志津川漁港で「第16海宝丸」の進水式が行われました。
震災後、初となる動力船の完成にたくさんの方がお祝いに駆けつけました。
震災前、南三陸町にはおよそ2000隻の漁船がありましたが、
そのうち94%は津波で流され使えなくなりました。
「第16海宝丸」を造った『大勝造船』は志津川漁港のそばにありましたが、
津波ですべてを流失しました。
漁港の別の用地を借りて業務を再開したのは去年の4月中旬。
今年に入って県が建ててくれた工場は、3年後には実費で解体し返却しなければなりません。
設備が不十分な中、津波を逃れた船の修復を行いながら新しい船を造るのは大変なことでした。
以前の設備であれば4か月で完成するところ、8カ月もかかったそうです。
そう語ってくれたのは千葉悟専務の奥様の祝子さん、経理を担当しながら千葉専務を側で支えました。
大型クレーンで吊って船が海へ着水した瞬間、まわりから拍手が起こりました。
千葉専務の3人のお子様もこの日を待ちわびていました。
1歳になったばかりの祝佳ちゃんは祝子さんに抱かれ、
心佳ちゃん(8歳)、倫佳ちゃん(6歳)も嬉しい表情を見せていました。
私のとなりに居たのはエンジンを造って積んだ技術の方でした。
感慨深く目を細めて、船が出港するのをじっと見守っていました。
船が出港する時には、降りだした雪はいつの間にか止んでいました。
澄んだ青空と色とりどりの大漁旗のコントラストが美しく、新しい門出をお祝いしているようでした。
「第16海宝丸」は海上をぐるぐる3周した後、みんなの想いを乗せて歌津港へ向かって行きました。
これから、イワシやサケなどの定置網漁を中心に操業を行います。
海にすべてが奪われても、それでも海と共に生きていく人たちは強く逞しい。
やはり、この町を支えるのは漁業なのだと改めて感じました。
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コミュニティサポート 江頭奈津見
仮設住宅で炊き出し
2012年4月14日 10:12
こんにちは。フィフティです。
4月8日の晴れの天気ではありますが、風がまだ冷たい日に戸倉の仮設住宅の集会所をお借りしての炊き出しに初めて参加しました。
前日の夜に10名ほどのメンバーで仕込みを行いました。
私はイカの頭の部分を食べれる部分と軟骨や目にわける作業を手伝って居ましたが、なれない作業のため人に墨を飛ばしてしまったりしました。
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現地で仕込み時の通りに作ったつもりが、「足りないかも?」と一緒に参加したメンバーで話しながらその場で少し試行錯誤をしていると、予定より早く炊き出しをすることになり、集会所の食べるスペースをあけたり少し焦りました。
炊き出しが始まると、子供からお年寄りまで沢山の人が来られ、お友達同士だったり、仮設住宅のご近所同士などあっという間に集会所は満員に。
炊き出しの焼きそばは、外で調理し、作ってる所が見れ、作り方を見ている方も居ました。
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集会所の中では様々な方が生活の情報を交換しあったり、被災時の話をしていたりしました。
私は炊き出し中にお茶を出そうとしても地元のお母さん方に「お茶は私達がするのでゆっくりしてください」と言われたり、「わざわざ来てくれてありがとう」と言われました。
炊き出しも、戸倉の仮設住宅の一軒一軒に地元のお母さんと一緒に回り、お届けしました。
そして、炊き出しをしている私達に逆にお味噌汁や煮物の差し入れをいただきました。
私は南三陸町へ来る前は「自分が行って何ができるだろう」と思いながらずっと居ましたが、来てからどこへ行っても逆にお礼をいただき、申し訳なく思っています。
南三陸町の方々が日々復興に向かって少しずつ歩んでいる途中を私も微力ながらお手伝いでき、同時に出合いに感謝しております。ありがとうございます。
そして、戸倉の近くでは桜がもう少しすると咲くと思います。炊き出しは少し寒い日でしたが今年の南三陸町の春ももうじきです。
歌を歌って
2012年4月11日 20:12
南三陸町でゴスペル・ミュージックを歌うイベント・ボランティアを
させていただいたミヤビです。
ボランティアに来て初めに思ったのは、
「帰りたい」
皆と会った瞬間にそう思った。
昔からいた人、いままで積み上げてきた絆
このなかでやって行けるんだろうか。そう思った。
私は、福祉施設で二日間イベントということで
高齢者の前で歌を歌うボランティアをしました。
高齢者のために とか
被災者のために とか
そんな大それたこと
言えないし、出来ない
でもこの南三陸町を見たときの悲しくて、悔しくて信じられなくて
そんな思いをこめて施設まで行きました。
それが、おばあちゃん達に会ったとき、
楽しく歌おうって思ったんです。
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感動させるとか上手く歌うとかそんなふうじゃなくて、とにかく楽しく歌おうって
問題点や改善点もたくさんあったけど皆が笑ってくれたり泣いてくれたりして
大成功だったかなー?なんて思いました。
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施設に行くときは、福祉チームの皆さんと一緒で
私が歌う時は、おじいちゃんおばあちゃんの横で
ずっと聴いていてくれました。
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歌、よかったよと声をかけてくれました。
緊張してるわたしを柔らかくしてくれました。
ボランティアの皆とぐっと近くなった瞬間でした。
一緒に起きて
一緒にごはんを作って
一緒に食べて
一緒に掃除して
一緒にボランティアして
一緒に反省して
一緒に寝て
こうやって一緒に過ごせる
出会えた奇跡って本当に凄いって思った。
ボランティアに来ている人達を見ると、皆必死に悩んで
もっとはやく来たかった、もっと長くいたかったと、
後悔しながら前を向いて、一生懸命な人ばかりで
多分いろんなひとがいるから、ぶつかったりケンカしたり
するんだと思うけど、それでもここにいる皆へ
ユナイデッドアースの皆へ。
また歌を歌いたいと思った。
南三陸町へきて
自分が力になるより
自分が学ぶことの方が
多すぎて、だからもっと知りたい
そう思いました。
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帰ったら南三陸町で感じた思いや経験を
伝えていかなきゃと思いました。
南三陸町で頑張ってる皆を、応援したいと思いました。
そして最後に、また来るね。
そう思いました。
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オリジナル絆Tシャツ誕生物語 その②
2012年4月 7日 19:43
その①からご覧いただくとわかりやすいです
http://united-earth.jp/minamisanriku/2012/03/t.html
ちょうど、小山さんと出会った頃、
ユナイテッド・アースの南三陸町バージョンのTシャツを作らないか、
という話がありました。
これは、参加されたボランティアさんの多くから、
ユナイテッド・アースのTシャツはあるのですが南三陸町バージョンのものがないので、ぜひ作ってほしい、というお声があった為です。
活動中に着ていたビブスを売って下さい、という方もいらっしゃいました。
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※ちなみに小山さんも最初、「ユナイテッド・アース」はご存知なかったのですが、
「青くて後ろに絆って書いてあるビブス」はご存知でした。
私はリーダーに小山さんの事をお話し、デザインをお願いする承諾をもらいました。
そして、
「南三陸町の方と共に進む、そんなイメージでデザインをお願いしたいな」
というリーダーの言葉と共に、再度、小山さんの元へ行きました。
小山さんは快く引き受けて下さり「1週間ほど時間を下さい」とのことでした。
そして、
「デザインが出来ました」
という連絡が入り、私がいただいたデザインがこちらです。
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「絆」という文字の中に、
「UNITED EARTH」「ALL STARS」「MINAMISANRIKU」「Team Kizuna」
の文字が見えますか?
小山さんは、
私たちのHPを見てくれたこと、
その中で何より「絆」を大切に活動していることを知ったことからこの字を描き、
「震災当初、僕たちはこの手のように救いの手を求めていました。
でも、今はもう大丈夫。共に手を取り合い未来へ羽ばたこう。
そんな意味を込めて書きました。」
そう説明してくれました。
このデザインは一発OKでした。
出来上がったTシャツは今、
ボランティアさん達の間で「絆Tシャツ」と呼ばれ人気です。
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そして、小山さんが着ていたあのパーカーも、
ボランティアさん達の間で大人気です。
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↓インドのタージマハルまで行っています^^
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クリスおねえさんがやって来た
2012年4月 4日 10:05
こんにちは。ポカです。
子ども向けの英語の歌の歌手で、「クリスおねえさん」の愛称で子ども達から親しまれている、クリステル・チアリさんが先週南三陸に来られました。
以前NHK「英語であそぼ」でも活躍されていたクリステルさんは、第10回寒鱈まつり福興市にもゲストとして来訪され、東北の子ども達と一緒に楽しい時間を過ごせるような活動を続けてこられました。
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今回の訪問では、志津川小学校に併設してある児童館、南三陸ホテル観洋の社内託児所マリンパル、伊里前保育所、佐沼保育園の4カ所で、楽しい英語のレッスン会を開かれました。私も児童館と佐沼保育園の英語セッションに参加させていただいたのですが、子ども達の元気の良さと、クリステルさんの子ども慣れしたレッスンの進め方、テンポの良さに圧倒されました。
英語のレッスンと聞くとつい、緊張してしまったり、恥ずかしくなってしまう子どもも多いのですが、クリステルさんのレッスンなら大丈夫!
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まずは、子ども達にとって身近なじゃんけんから始まり、色、数字、季節と言うように、
音楽に合わせて、動作に合わせて、遊び感覚で単語やフレーズを覚えていきます。
子ども達が保育園や、幼稚園でたくさんの童謡を歌うとのと同じように、私自身もカナダに留学を始めた当初、たくさんの聞き慣れない単語を覚えるために、洋楽の歌詞から単語を学び、一緒に歌って覚えるということをしていました。
クリステルさんはそれに加え、単語に動作をつけることで、耳から聞いた音だけではなく、体全体で記憶させる、という方法をとっているので、子どもにぴったりで画期的なレッスン方法だなと感じました。
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佐沼保育園の園児達は本当に元気が良くて、レッスンの最後には、感謝の気持ちを込めてホ!ホ!ホ!をとびきりの笑顔で歌ってくれました。クリステルさんは、生き生きとした子ども達の様子を見て、「子ども達に英語の楽しさを知ってもらう為に、英語と触れあうきっかけをつくる為に、東北へまた戻ってきます。」とおっしゃっていました。
こう言った出会いを機に、英語に興味を持ってもらい、東北で起きたことを日本国内だけでなく、世界に向っても発信していける様な子ども達が増えれば、とても素敵だなと思いました。
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鮭の採卵②
2012年4月 1日 12:56
こんにちは
メディア班のすずです
去年の12月に取材させていただいた鮭の採卵場へ、稚魚が産まれたと聞いてもう一度取材に行ってきました。
12月に取材させていただいた時のブログです。
http://united-earth.jp/minamisanriku/2011/12/post-186.html
12月に卵を採り、2月ごろに孵化をして、そして4月に放流する。
大震災があったあともこの流れは変わらず、何十年も繰り返してきたこと、どんなことがあっても受け継いでいくんだ思いをというを感じました。
まだ水溜りは凍り、雪も積もる中、職員の方が話しかけてくださいました
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「寒いねぇ、こんな寒いときに本当にご苦労様だねぇ」と気さくに話してくださいました。
その方は鮭の採卵場で働き始めたのは6年前だそうで、仕事ができることが本当に楽しそうにしていました。
これから暖かくなり、4月には放流をするそうです。
例年通りの数放流できることを願ってます。
少しずつでも復興に向かっていき、人の気持ちもどんどん明るくなって、またみんなが笑顔で住める町になってきてるのかなと思います。
命が産まれることは本当にごく当たり前のことかもしれませんが、津波を受け沢山の方がなくなっているこの地で人や動物も同じように還ってくる「新しい命」がひとつひとつが、復興につながっていくんじゃないかと思いました。
春告げ福興市に訪れて
2012年3月29日 23:44
こんにちは。福祉チームで活動しているいけちゃんです。
私は、9月末に初めて南三陸町を訪れ、今回で4回目の滞在となります。
先日、3月25日に第12回目の福興市が開催されました。サイレントが鳴り響く中黙祷を捧げ、亡くなった多くの方のご冥福とこの町の復興を強く祈りながら、「えいえいおー」という力強い開会宣言のもと福興市がスタートしました。
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ステージ発表はどの団体もとても迫力があり、とてつもないパワーを感じました。みなさんも、この力強い演技に魅了されたことと思います。震災後なかなか活動できずにいた団体が南三陸町という地で南三陸町を元気づける活力となる。それは、とても大切なことなんじゃないかなと思いました。
福興市は、とにかく人が多く活気に溢れていました。
前回の福興市では売り子のボランティアとしてお手伝いをさせていただきましたが、今回はボランティアとしてではなく、お客さ
んとして福興市をまわらせていただきました。初めて福興市を外から覗いてみて、現地の方のパワー溢れる笑顔をたくさん見受けることができました。
そんな中でふと気づいたとは、「被災地での福興市」ということではなく、美味しいご飯とお店の方とのたわいもない会話に純粋に福興市を楽しんでいる自分がいたということです。
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今まではビブスを着た方が多かったのですが、今回は少ないなあという印象もうけました。いずれはボランティアはいなくなります。「福興市」の回を重ねるたび町の方たちが一丸となり協力し合いながら町の商品を売っているようにも感じ取れました。テントの下で今後の南三陸町について真剣に話し合う光景を目にし、状況や方法は違っても「復興」という文字に向かって一人ひとりが歩いているということを感じました。
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お店の人が笑顔でおいしいものを売っている。その姿を見て無性にそのおいしいものが食べたくなる。そのおいしいものを食べた人がおいしくて笑顔になる。それを見た人が嬉しくて笑顔になる。また、その笑顔に触れた人が笑顔になる。
笑顔が伝染して、その輪が「福興市」で広がっているようにも感じました。
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一瞬にして多くのものを失った震災。3月11日。
この地で悲しみの中にいた町の方の心情ははかりしれません。
1年が経った今でも震災の爪痕は大きく残っています。
正直私には産業や雇用のことは難しくて分からないし、どれだけ考えてもこの町の方の気持ちを全て理解できるわけでもありません。ボランティアに出来ることは本当に限られていますし、ボランティアに対しても色んな意見があると思います。「ボランティアって何なんだろ?」とか「私にできることって何なんだろ?何もできないのに来ていいのかな?」ということも半年間ずっと考え続けてきましたが、いくら考えても答えは見つかりません。
しかし、語り部の方のお話にこんな言葉がありました。
「人との交流こそが前に進める道。来てくれるだけでいいんです。来てくれてありがとう。」
この言葉を耳にした瞬間、
「あっ。またこの町に来てもいいんだ。」
「また、この町に美味しい海の幸食べに足を運んでもいいんだ。」
ということを感じました。
こんなにも人との繋がりを大切にしようと意識したのは初めてです。大災害の中で様々な背景からうまれた言葉「絆」。
私はこの町で人と人との繋がりからたくさんの勇気と元気をもらいました。
復興までの道のりはまだまだ時間がかかると言われています。
被災地に元気を発信する福興市。
絶対にまたこの町の美味しい挽品を食べに戻って来たいと考えております。そして、たくさんの方の笑顔にお会いできたらいいなと思います。おいしいものと笑顔の集う温かくて素敵な出会いがある「福興市」。みなさんもぜひ、足を運んでみてはいかがでしょうか。
オリジナル絆Tシャツ誕生物語
2012年3月26日 20:46
こんにちは。
広報班の麻子です。
10月のある日、南三陸町のお隣にある登米市の観光物産センターへ行った時、
「南三陸」と左腕にプリントの入ったパーカーを着たお兄さんに出会いました。
その方は観光物産センターで海産物・乾物を販売していました。
お客さんの応対をされている合間を縫って、
「そのパーカーはどこで買ったものですか?」
と声をかけてみました。
すると、
売っている場所をにこやかに答えて下さいました。
そして、少し照れくさそうに、
「僕がデザインしたんです。」と言うのです。
彼の名前は小山(おやま)さん。
震災前から、様々なデザインをてがけていたそうですが、
この震災により家が流され、デザインに必要な機材も流され、
今は奥様の実家がある登米に暮らしているそうです。
「後ろのデザインはどうなっているんですか?」
何気ない興味から、
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後ろにまわりこんで、
そこにある言葉を目にした時、
私は声が出ませんでした。
『自然に生かされ
自然に奪われ
それでもここで
暮らしたい 』
そう書いてありました。
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南三陸町へ来て、強く感じるのは、
皆さんの地元愛の強さです。
それはそのまま、復興へ懸ける情熱となっているのを、
この町へ来て約半年の私は日々ひしひしと感じています。
でも、
これまで20代、30代の若い方と出会う機会があまりなく、
地元の若者はこの町の事を、
どう思っているのだろう、と漠然と考えていました。
この言葉を見た時、
南三陸町への地元愛はちゃんと若者にも引き継がれているんだなぁ、と、
感じずにはいられませんでした。
私は小山さんに簡単な自己紹介と、
南三陸町でボランティア活動をしていることを伝えました。
小山さんは「ありがとうございます」と言って下さり、名刺を下さいました。
それが私たちと小山さんの出会いでした。
【続く】
震災から1年 ~大切な友人たちに伝えたいこと~
2012年3月20日 10:11
はじめまして南三陸町で生まれ育って来た、高橋翔太(しょーちゃん)です。
昨年の6月からUE(ユナイテッドアース)で一緒にボランティア活動をしています。
昨年の3月11日から1年が経ちました。いままで俺は震災当時のことをあまり話したくありませんでした。それは、同情されるのが嫌だったからです。
今の僕があるのは震災が起こってから今まで出会ってきた、そしてこれから出会うであろう人達みんなのおかげだから、この話をしたからといって同情なんてしないで欲しい...それが僕の1番の願いです。
僕の家は目と鼻の先に海があるという場所に建っていたので津波で流されてしまいましたが、別にそれは構いません、家族が全員危機的な状況にありましたが無事に生きて会えたのだから。
震災が起きてからいろいろなことをしてきました。物資運びや水汲みや道路の簡易的な整備をしていたり、それと「遺体運び」もしました...
僕が住んでいた地区には若い人があまり多くなかったこともあり、なんで僕がとか思いながら手伝っていたし、「遺体」というよりも何か「物」みたいな感覚で作業をしていたけど、あることがきっかけで僕はその考えがあまりにも愚かだったと思うようになりました。
当時、避難所だったベイサイドアリーナには全国、または世界中からたくさんの物資が運びこまれていました。人手が足りないということで僕もその手伝いで駆り出されていました。
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そこで、僕はある光景を偶然目にしました。それはトラックに乗せられた傷だらけの子供達の遺体でした...その隣には泣き崩れる夫婦の姿があり、その手には冷たくなってしまった小さな手がしっかりと握られていました...。僕は、失礼かもしれないけど、ただずっとその光景を見ていました。その時は胸の中でなんとも言えない痛さがじくじくと自分の中で広がっていました。
この震災で多くの人が大切な人たちをなくしました。僕も大切な友達をなくしました。そいつは車が好きで、この南三陸町が好きで、友達が好きな奴でした。
そいつは震災の2日前の夜に「今から遊びに行こうよ」と誘ってきました。僕は忙しくてその誘いを断り、3月11日の夜にしようと言いました。それがまさかこんなことになるとは思っていませんでした...
彼は、4月の中頃、遺体で見つかりました...
葬儀はできないので火葬だけでもするからと呼ばれて火葬場に行きましたが、僕はその時彼のことを遺体を見て一瞬何かやっぱり「物」みたいに思ってしまった。
人の中にある「魂」というものが感じる事ができなかった、人の形をした入れ物のように感じてしまった。
それがめちゃくちゃ悲しかった、めちゃくちゃ悔しかった。
ボロボロと涙が止まらなかった、彼に対する申し訳なさと、
今まで遺体処理をしてきた時に何も感じることができなかった自分に対する悔しさでいっぱいだった。
あの人たちにも大切な人たちがいて、こんなに泣いてしまう人がいると思うとやりきれなかった。
それから1ヶ月位何もする気が起きなくて死んだような思いで過ごして来ました。
でもある日、テレビのドラマで「仁」という番組がやっていたんですがその中で
「死んでいった者たちに生きている者たちがしてやれることはもう一度この国にこの場所 に生まれて来たいと思える場所にすることだ」
って言ってました。それを聞いた瞬間に自分が何をしたらいいのかが、少しだけ分かった気がして、涙が自然に出て来ました。それは、聴く人によっては何て事のないセリフの1つかも知れませんが僕にとっては今でも心の根底にある大切な言葉になりました。
それから僕は友達に前から誘われてたボランティアに参加しようと決めました。
何ができるか分からないけど、ただじっとしてるよりは何か行動したほうがいいと思えたんです。
しかし、今となっては笑い話ですが、ボランティアをして行くうちに何が正解なのか、分からなくなってしまった時があり、僕は11月の始めから1月の中旬まで軽く「うつ」になってしまいました。何をしてもダメなんじゃないかとか、なんで俺はあの時死んでなかったんだろうとかを毎日毎日考えていました。しまいには自殺まで考えてしまったこともありました。
あの頃は、ボランティアとは何なのか、団体の自己満足なのか、宣伝なのかとか悩みました。ただ、あの時「みずちゃん」というボランティアの人に言われた「私もわかんないけど、私は誰か一人でも喜んでくれる人がいるのであれば頑張りたい。」という言葉が今も胸に残っています。彼女の言葉で少し僕も救われたところがありました。
彼女以外にも、たくさんの人たちのおかげで僕は立ち直る事ができました。今ではちゃんと腹の底から笑える事が出来ています。
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3月11日、僕は亡くなった友人の彼に会いに行くことにしました。志津川病院の裏で彼の遺体が見つかったそうなので、そこであの時果たせなかった約束を守りに行こうと思ったからです...、病院周辺はマスコミの数が多すぎて嫌になったけど、それでも彼との約束をないがしろにしたくなかったから少し遅くなったけどビールを持って彼が見つかった場所へ会いに行きました。それと彼がよく吸っていたアカマルを持って彼と乾杯してきました。話したい事がたくさんあったんだけど、全然伝えられなかったです...、いろんなこと思い出してしまって上手く言葉にできなくて、それでも1つだけ伝えたいことだけは伝えてきました。
『最高の友達がたくさん出来た』って自慢してきました。
僕は今まであってきた友人たちにお礼を言わなければなりません。
僕に出会ってくれてありがとう
僕と友達になってくれてありがとう
ボランティアとして一緒に活動していたのもあるけど僕はあなたたちのおかげで
立ち直れたし、ちゃんと今を生きていくための覚悟を持てました。
『頑張る』って言葉は使わない
自分らしく生きていこう
自分のことを好きになろう
自分でよかったと思えるように生きていこう
人を好きになっていこう
人のために生きていこう
そんなことを思えるようになったのはあなたたちのおかげです。
この言葉は絶対に伝えないけないと思う
「ありがとう」
この言葉しか出てこないです
いつかは皆それぞれの道を歩んでいきます。いっぱい悩んで、いっぱい苦しんでそれでも前を向いて一歩ずつ確実に歩んでいきます。それは僕ら被災者も、ボランティアできた皆も同じ事です。だから毎日を精一杯楽しんで生きてください。
僕ら被災者があなたたちに出来る恩返しはこの町を復興させて、そんでまたこの町に来た時に「おかえり」って笑って迎えてあげる事だと思います。
それまではまだ時間もかかるし、いろいろ大変でたくさんの人たちの力が必要だと思います。こんな馬鹿な僕だけどこれからも宜しくお願いします。
~新しく出会った大切な友人たちへ、感謝を込めて~
しょーちゃんでした、長々と書いてしまって申し訳ありませんでした。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
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東日本大震災から1年。これからも被災された皆様と共に、1歩ずつ前へ
2012年3月11日 01:48
改めて、亡くなられた皆様へ哀悼の意を表すとともに、被災されたすべての皆様に心よりお見舞い申し上げます。そして、震災直後よりこれまで多くの企業・個人の皆様からの救援金・支援物資をお寄せいただいた全国の皆様、ならびに全国から参加したボランティアの皆様、厚く御礼を申し上げます。
2011年3月22日から活動を始めた私たちユナイテッド・アースは、これまで全国から延べ10,000人近くのボランティアの皆様と力を合わせ、被災者の皆様と"共に"の精神で、様々な支援活動が展開することができました。
(詳しくは支援活動記録をご覧ください。
http://united-earth.jp/minamisanriku/record.html)
しかしながら、復興の道のりはまだまだこれからです。私たちは、阪神淡路大震災の経験を活かし、先行き不透明な経済情勢の中、日本が抱える財政赤字、少子高齢化等の問題と向き合いながら、被災地の人口流出、風評被害、瓦礫撤去等の問題解決の一助を担うべく、今後も、被災地の復興に尽力して参りますので、何卒よろしくお願いいたします。
ユナイテッド・アース現地責任者 佐藤敬生
早春、南三陸志津川湾わかめ収穫
2012年3月 5日 00:01
メディア班のヤンキースです。
平成24年2月29日早朝5時過ぎ、まだ昨晩の余韻を持つ暗い空の下、志津川漁港に大森わかめ生産組合の漁師の方々が集まりました。残り雪の見える漁港では海からの強い風が吹き付け、出発前に暖をとる姿が焚き火に温かく照らされています。
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若布の収穫シーズンのはじまりのでもある2月の終わり、ここ志津川の漁港では、真新しいボイル機が並び、天候の良い日は4トンから5トンのわかめが上げられます。
本日同行させていただく大森わかめ生産組合の漁師の方々にとって、震災以来、初の若布の収穫になる日という事もあり、周囲は笑顔と笑い声に包まれていました。各艘15ケースの収穫箱を載せ、2人一組で船に乗り込み湾内の荒島の奥200メートルの海へと向かいます。
湾には、一直線のロープと規則正しく付けられたブイで作られた養殖棚が一面に張り巡らされていました。一つのブイの下には若布の株が4つずつ植えられ、一つずつ成長段階をずらし育てられているのです。通常の若布の成長には約100日が必要であり、そこから30日ずつ間隔で計4回の収穫に分けられているそうです。
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成長した若布をブイごとにロープを引き上げ船上の柱に固定し、株から茎、葉を切り離し、そして葉先を切り捨てます。長年の経験で培われた目で、残す部分、切断部分を選別し一つ一つ進んで行きます。早朝の冷たい海水を浴びながらの重労働でした。
息を合わせた声が湾内に響きました。
三陸わかめは日本で最も知られるブランドの一つで、肥沃な三陸の海のミネラルと、適度な水温のなかその味は培われるそうです。リーダーの三浦保文さん曰く、震災後に湾内は浄化されているので、切り捨てた若布は海に放つ方が良い。それが水中プランクトンを成長させ、そしてまたそのプランクトンで若布が成長するとの事です。
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もうすぐ東日本大震災から一年が経過します。海の上で活気よく若布を収穫し、談笑する漁師みなさん一人一人が、辛い経験、悲しい経験を乗り越えここまで進んでこられたのだと思います。
こういった日々の一つ一つが明日へ向けての一歩なのだと強く実感しました。
それとともに一緒に共有させていただいた時間を深く感謝します。
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休憩中作業の手を休めた漁師の阿部周一さんは陸の方を眺めながら
"海から町を見ると今は何もなく瓦礫の山しか見えないけど、ここは山と海の自然に包まれた奇麗な町なんだよ。"
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豊楽食堂
2012年2月23日 17:24
メディア班原賀です。
2月25日、南三陸町志津川地区に、待望の仮設商店街がオープンします。
その名も『南三陸志津川福興名店街』。
およそ30の地元店舗が軒を連ねます。
その中の一つ、『豊楽食堂』の開店エピソードを載せさせて頂きます。
店主の遠藤とよ子さんは現在79歳。
『豊楽食堂』を、町の中心地で50年前に開きました。
「たくさん食べてもらうのが大好き」という遠藤さん。
ラーメンやご飯ものを中心に、地元の方に大人気の食堂でした。
住居も兼ねており、昔は、幼い我が子を負ぶいながら調理をしたそうです。
子供が独り立ちしてからも、遠藤さんは50年間休むことなく食堂を営み続けました。
そして2011年3月11日。
『東日本大震災』発生。
『豊楽食堂』の全てが流されました。
箸一本残りませんでした。
『50年』が、一瞬で消えたのです。
店の前の病院に避難した遠藤さん。
病院の屋上から、『豊楽食堂』が津波に飲み込まれる様子をずっと見ていました。
どれほどの恐怖だったでしょう。
どれほどの無念だったでしょう。
遠藤さんがその『場所』に積み重ねた『50年』―。
いくら思いを巡らせても、とても想像が及びません。
話して下さることへの『感謝』と『申し訳なさ』を抱えながら、
必死で遠藤さんのお話を傾聴しました。
震災後仮設住宅に入居した遠藤さんに、お孫さん(ヒロシさん)から電話がありました。
東京生まれにもかかわらず、南三陸を故郷と呼ぶヒロシさんは、25歳の料理人です。
そして、その電話は、「豊楽食堂の跡を継ぎたい―」というものでした。
79歳の遠藤さんは、その声に後を押されるように、『豊楽食堂』の再開を決めたのです。
オープンした仮設店舗では、きっと、二人並んで鍋を振るのでしょう。
遠藤さんは、笑って顔をクチャクチャにしながら言いました。
「ヒロシも最初は何もできないから、1から仕込まなきゃならない。大変だよ。」
『場所』が流されても、『人』が残れば『想い』は残る、受け継がれる―。
そう気付かされました。
いよいよオープンの『志津川福興名店街』、『豊楽食堂』。
更なる『想い』が積み重なって、新たな『歴史』が始まります。
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一艘の漁船
2012年2月19日 11:51
メディア班原賀です。
先日、戸倉地区の漁港を訪れた時、
寒風の中、黙々と船のメンテナンスをしている男性に出会いました。
歴27年のベテラン漁師、佐藤さんです。
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船名は『恵比寿丸』―おじいさんの代からその名は受け継がれています。
311の津波で恵比寿丸は破壊され、海から3km離れた畑まで流されました。
震災翌日に船の所在を知った佐藤さん。
その時は、『悲しみ』も『感動』も、何も感じることが出来ませんでした。
「家族と仲間の安否、その日を生きること、それだけだった。
船や仕事を考えるゆとりは無かった。」
恵比寿丸は、畑の真ん中で5月まで置き去られます。
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日が経ち、佐藤さんは再び『漁師』になる決意をします。
自身と家族と町の未来を考え、漁師の道しか思い浮かばなかったそうです。
恵比寿丸の復活を誓った佐藤さん。
畑の真ん中から重機で引っ張り出し、8ヵ月間かけて修理をしました。
佐藤さんと出会ったまさにこの日が、
修理を終えた『新生恵比寿丸』初進水の日だったのです。
「やっぱり自分の船を動かすとワクワクするね。」
口調から、佐藤さんの興奮が伝わってきました。
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修理の間、佐藤さんは漁師仲間の仕事を手伝わせてもらっていたそうです。
恵比寿丸復活の目処が立った時には、
「これで仲間に迷惑をかけないで仕事ができる」と、
『喜び』よりも『安堵感』が勝っていたと言っていました。
きっと、仲間の漁師は、少しも迷惑だとは思っていなかったでしょう。
皆で団結して、
『自分たちの海を、生業を、復活させる!』と踏ん張っていたのだと思います。
311に破壊された物、事、人。
けして戻れない過去、癒せない傷があることを、日々、思い知らされます。
その一方で、未来に向かう力強い歩みを、日々、目の当たりにします。
この日、佐藤さんと仲間の力で、恵比寿丸は復活しました。
今、町の至る所で繰り広げられる様々な『復活劇』。
その礎に、南三陸町の持つ強い『地域の絆』の存在を、ひしひしと感じるのです。
佐藤さんの育てた銀鮭は、4月出荷予定。
「南三陸町の銀鮭は本当においしい。ぜひ食べてください。」
――楽しみに待ちます。
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希望の詰まったマドレーヌ
2012年2月14日 21:45
広報班やっちです。
南三陸町戸倉地区で奮闘するパティシエの方にお話を伺って参りました。
町唯一のペンション「オーイング」は戸倉地区の海辺に建つ白亜の家。
家族経営ならではの暖かなおもてなし、そして素晴らしい景観が評判の宿でした。
長嶋涼太さんはそこでパティシエを務めており、多くのお客様が彼の作るスイーツを楽しみに訪れました。
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震災直後、オーイングは波こそ被らなかったものの海側の崖が崩れ、住居とするには危険な状態となりました。
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ペンションを閉業し志津川自然の家へ避難された涼太さんご一家でしたが、この地区は周辺の橋が崩壊したことにより完全に孤立しており、自衛隊の救援が届くまでの2週間は住民の方だけの力で自活を続けることとなりました。
避難所の皆さんと総出で幹線道路のガレキを撤去するなど奮闘のかたわら涼太さんは限られた食材を使いホットケーキやミルクレープを作成。
お菓子作りの腕を発揮し続けていました。
味噌汁カップ入りのパフェを作った際にはその製造過程がツイッターで実況され、日本中多くの方から応援を受けながら美しいパフェが完成しました。
仮設住宅に移動したのち生活のためのアルバイトをしながら今後の道に迷っていた涼太さん。
しかし、これまで会った事もない人達から材料・調理器具等の支援を受けたこと、またお菓子を食べた人達の喜ぶ顔を見たことによりパティシエを続けていく決心がついたと言います。
ペンション時代から名前を変え発ちあがった洋菓子店「Oh!ing菓子工房Ryo」は、まず近しい方を対象にした注文製造からスタートしました。
そして2011年11月の福興市では焼き菓子を提供、クリスマスには種類こそ少ないものの前年とほぼ変わらない数のケーキの注文を受けました。
未だ店舗は持ちませんが使い慣れた厨房を拠点とし、目標とするペンション再開に向け動き出したばかりです。
涼太さんの自慢はふっくらとした「復興お山のマドレーヌ」。
他のお店で見かけるマドレーヌより大ぶりで、二つに割ると甘い香りが漂います。
どっしりとした食べごたえ、ほろほろとした口溶けでお店の一番人気も納得のお菓子です。
涼太さんによると「焼きたてが一番うまいんだ、外がサクサク、中がフワフワなんだ」とのこと。
いつかいただいてみたい・・・!
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12月には第三子が誕生、涼太さんはアルバイトを辞めお菓子作りに専念する決断をしました。
これからもっと新商品も開発したいと抱負を語る顔からは厳しさの中にも溢れる幸せが感じられます。
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現在は雛祭り向けのケーキを準備中とか。
「Oh!ing菓子工房Ryo」のお菓子はこれから町中の人に、きっと更にたくさんの人達に希望を届けることでしょう。
涼太さんの活躍はこちらのtwitterからご覧いただけます。
https://twitter.com/madeleine_ohing#
ご注文はこちらのサイトから。
南三陸町戸倉地区勝手に応援団
http://minamisanriku-togura.com/
『現場』で感じること
2012年2月 6日 09:54
メディアチーム原賀です。先日、新しい二人のメンバーと歌津地区を回りました。
その時に二人が感じたことを書いて貰いましたので、並べて記載します。
《たかさん》
こんにちは。"たか"です。
ユナイテッドアースで10日間ほどボランティア活動に参加します。
南三陸町に来て、はや3日が過ぎました。
テレビや映像でみるのとは違い『現場』空気は来て見て感じないと絶対わかりません。
自分は漁業ボランティアというのをやっているのですが、今日は市場がお休みという事で、長期メンバーに津波被害の漁港等を案内していただきました。
南三陸町のうち、志津川地区と歌津地区の港をおよそまわり、かなりの距離を走ったと感じたのですが、これだけ見てもまだまだ宮城のほんの一部。
太平洋沿岸を破壊しつくした、東日本大震災での『津波被害』の広大さに愕然としました。
...それまでの、日本のよき『海のある田舎の風景』は巨大津波で破壊されつくし、数多くの尊い命も奪い去られてしまいました。
ここでは『復興』という共通の強い思いで結ばれた仲間がいます。
素晴らしい出会いと感動と、『今』『ここ』でしか出来ない体験は、その後の人生を一変させるほどの、ものすごい力をもっていると信じきっています☆
《しゃおりん》
長期ボランティアを予定している"しゃおりん"です。
今日はオフを貰い、歌津地区の海岸沿いをドライブしてきました。
どの海も絶景の眺めで、夕焼けが差し込みとてもきれいで、穏やかな波をしていました。
でもふと視線をそらせば瓦礫があり、家が全て流された更地があり、木はなぎ倒されている光景...頭が真っ白になり鳥肌が立ちました。
津波は映像でしか見たことはありませんが、実際立ってみると、この海が何十メートルもの高さとものすごい速さで全てを飲み込んでしまったとは想像してもしきれません。
家を流されて仮設住宅に住んでいる方のお話を聞いていると
「全部流されてっから見ておいで」と笑って話され、
正直どう反応していいのか分かりません。
被災された方の気持ちはとても図り知れません。
心の整理もつかぬまま今もなお震災の現状と向き合い生活をしている方がほとんどだと思います。
活動をしていく上で失礼にあたることもたくさんしてしまうかもしれません。
でも構えずに色々な方との触れ合い、出逢いを大切にしていきたいと思います。
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志津川福興名店街引き渡し
2012年1月29日 13:36
メディア班、タカセです。
9月以来、4ヶ月ぶりの南三陸。まだ夏の気配のあった頃と比べ、やはり東北なんだなーと実感させられる寒さ。
雪がちらちらと降り出しては止み、降り出しては止みを数日繰り返しています。
そんな中、今日は2/25にスタートする南三陸志津川福興名店街の引き渡しが行われました!
場所は志津川の中心部から国道398号線沿いを行って、ファミリーマートを過ぎた辺りの並びにあります。
バス停も出来る予定です。
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店舗の設備の説明。仮設とはいえ、使い勝手のよい考えられた機能の説明に、おおーっと驚きの声が。
やっと具体的に動き出した実感が湧いているようでした。
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店舗に囲まれるようにして中庭のセンターコート、フードコートが配置され、お客さんがゆっくりくつろげるよう工夫されています。
今はグレー一色の店舗ですが、徐々にペイントされていく予定です。
オープンの25日には各店舗でいろんな企画を。26日にはいつもはベイサイドアリーナで行われている福興市がここで行われます!
三陸道が渋滞してしまったりして。と既に気合いの入ったお言葉が。
12月に入ってようやく信号が付き、夜には真っ暗になってしまうガレキの町が徐々に明るくなってきました。
そしてまた、この名店街が夜の町を明るくしてくれそうです。
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祝!地域づくり総務大臣大賞
2012年1月28日 15:22
皆さんこんにちは。ユナイテッド・アースの現地責任者の佐藤です。
既に報道されておりますが、町の公式ホームページからも発表されているように南三陸町が地域づくり総務大臣大賞を受賞されました!
南三陸町公式ページに掲載されています。
http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/news/article.php?storyid=618
一部抜粋してご紹介させていただきますと、
~震災前から地域づくりの活動を地道に、そして熱心に行っており、基盤がしっかりと整っていたため、震災後、いち早く活動をスタートさせることが出来、まぎれもなく古くから築き上げてきたこの街ならではの「地域力」があったからこそだといえると思います。~
と、書かれています。「地域力」という言葉は、まさに私自身、南三陸町に来て間もなく10か月を過ぎようとしてますが、南三陸町の皆様の団結力やコミュニティの強さを身を持って体感したことでした。
今、日本の地域社会づくりにおいて、南三陸町にあるような「地域力」が全ての市町村に求められていると思います。そして、さらに新しい町づくりに向けて、防災等の安全面はもちろんのこと、最先端の環境技術や次世代を担う人材育成など、常に新しいものを取り入れ、開放的に前へ進むチカラが必要に感じています。
私どもとしましても、地域づくり総務大臣大賞に評価された「福興市」や「語り部ガイド」のお手伝いをさせていただいておりましたので大変嬉しい限りではございますが、復興への道のりはまだまだだと感じております。今後も引き続き、民間のチカラを合わせて、産業復興や雇用創出、そして地域ボランティアの両面で、微力ながら継続的に復興活動に貢献できればと思っております。
南三陸町の皆様、この度の受賞、本当におめでとうございました。
※地域づくり総務大臣表彰についてはこちらをご覧ください。
http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01gyosei09_02000007.html
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年始の挨拶
2012年1月 1日 19:49
皆様 新年あけましておめでとうございます。
ユナイテッドアースでは、1月10日より本格的に復興活動をスタートいたします。
昨年、流行語にも選ばれた「絆」の精神で、今年は昨年以上に「産業の復興」「雇用の創出」に向けて、さらに軸足を置いて進めていく所存でございます。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
感謝 2011年がもうすぐ終わります。
2011年12月31日 18:04
2011年3月11日に発生した「東日本大震災」の発生後、3月22日から南三陸町に入り、全国の皆様と共に復興支援活動をさせていただきましたが、月日が経つのは早いもので、まもなく2012年を迎えようとしております。
南三陸町役場職員の皆様、地元の経営者の皆様、社会福祉協議会の皆様、仮設住宅の自治会の皆様、PTAや学校関係の皆様、そして、多くの南三陸町の皆様の、心温かいご対応に、この場を借りまして心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
そして、これまで全国から延べ5000名以上の思いあふれるボランティアの皆様が、私どもの活動に賛同いただき、一緒になってご参加くださいましたこと、改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。
人・物・資金・情報が、国境を超えて流通するグローバル社会も大きな転換点に差し掛かっている今、世界的な視点から、この東北の被災地をどのように復興すべきかを、若い世代もお年寄りも、全て垣根を越えて"共に"の精神で取り組んでいくことが最も重要なことだと、南三陸町に来て痛切に感じました。
そのために、私どもとしましては、常に利他の精神で、多くの皆様のお知恵をお借りしながら、学び、謙虚に、そして感謝の気持ちを忘れず、この震災でお亡くなりになられた方々のためにも、輝かしい復興に向けて、微力ながら貢献できればと考えております。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。
ユナイテッドアース現地責任者 佐藤敬生
ついにボランティア拠点にも高速インターネット!(ASAHIネットさん、あ りがとうございました!)
2011年12月26日 18:59
ボランティア募集の呼びかけ、支援の呼びかけ、ボランティア同士の連絡・
情報共有、南三陸からの情報発信など、ボランティア活動にかかせないイン
ターネット。
ユナイテッドアースの南三陸での活動拠点は2カ所あり、その拠点でのイン
ターネットインフラを提供してくださった企業さんがいます。
老舗インターネットプロバイダのASAHIネットさんです。
ここが1つめの拠点。海から1kmほどのところにある民家をお借りしていま
す。
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ここにも津波が押し寄せて、床下浸水しました。
目の前にあったビニールハウスはすべて流されてしまったそうです。
こんな場所。
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こちらの拠点には、やっと12月から光回線が届きました。
高速通信が可能になって、もーーのすごく助かっています。
ちなみにネット回線の復旧状況は南三陸町内でも、エリア、建物によってま
ちまちだそうです。
そして二つ目の拠点。海のすぐそばにあるのですが、少し高台になっている
ので津波の難をかろうじて逃れました。
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左隣のお宅は1階まで波をかぶっています。
ちなみに我らの拠点は標高18m、お隣は標高15m。
こんなようすです。
大きな地図で見る">
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こちらにももうすぐ光回線が届く予定ですが、今は高速モバイル通信の、
NTTドコモのサービス、「Xi」(クロッシィ)を使ってネットにつないでい
ます。
クロッシィもASAHIネットさんがご提供くださったんです!
クロッシイがあれば、屋外現場での事務作業もできてほんとーーに便利!
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ASAHIネットさんは、ほかにもプロジェクタやルータなどパソコン周辺機器
をたくさん支援してくださいました(ToT)
ユナイテッド・アースの活動も、どんどん多様化していって、地元の人との
コミュニケーションや、各関係者への提案活動など、運営にはなんだかんだ
で事務仕事がたくさんあります。
本当に助かっています!
そんなわけで、インターネット環境もどんどん向上しています。
ボランティアにももっともっとたくさんの人にきていただいて、インターネ
ットを使って現地からどんどんリアルな情報発信してもらえたらと思ってま
す!みなさんのお越しを南三陸でお待ちしています-!
南三陸の冬支度はスタッドレスタイヤから!(AUTOWAYさん、ありが とうございました!)
2011年12月25日 23:31
東北地方を冬走る車にはスタッドレスタイヤはかかせません。
11月頃からタイヤを履き替えはじめます。スタッドレスじゃないととても危
険!
さてユナイテッド・アースのボランティア活動で使用中の車は10台ほどあり
ますが、我々もタイヤ交換の必要性に迫られつつ、常なる財政難の切ない悩
みをかかえつつ、日々着実に冷え込んでゆくこの町の本格的な冬の訪れに
戦々恐々としていたところ、なんと!
タイヤをご支援くださる企業様が現れたのです!!!!!!!!
タイヤ販売のAUTOWAYさんです。
http://www.autoway.jp/
オンライン販売を展開しているタイヤ屋さん。
当時一番、困りに困っていた懸案だったので、ご支援くださることが決まっ
たときはもうボランティアメンバー一同騒然!狂喜乱舞!
本当にありがとうございました。
さっそくいつもお世話になっている地元の自動車整備屋さん、「高橋自動
車」さんにタイヤ交換に。
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高橋自動車さんは、海から3kmも内陸に入ったところなのに、お店の目の前
まで津波が到達して、ぎりぎりで難をのがれたそうです。
お店のまわりは今こんな様子。こんな山あいまで、津波は川をのぼってきた
のです。お店の前ぎりぎりまで、がれきの山だっただそう。
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ただ、高橋さんのご自宅は海よりのところにあって、ペットの犬たち3匹も
ろとも、津波にのまれてしまったそう。。
そんな高橋さん、震災により飼い主がいなくなってしまった犬を、仙台から
ひきとったんですって。高橋自動車さんの看板ワンコとしてお客さんに愛嬌
をふりまいています。くーちゃんと言います。
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ところでスタッドレスタイヤってこんなです。表面にいくつもナミナミの溝
があるのが夏タイヤとの違い。
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田舎なので、ボランティアの移動に車はかかせません。
ほんとうに助かっています。
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AUTOWAYさん、ほんとうにありがとうございました!





